心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.33
後生畏るべし
No.34
過ぎたるは猶及ばざるがごとし
~孔子『論語』
No.33 後生畏るべし
『論語』子罕 第九
誰もが知る、孔子の名言。解説はのちほどとして、まず下の設問に答えてみてください。
[質問]
「後生畏るべし」の正しい用法を下の1.~3.から選びなさい。
1.あの子は小学生なのにソフトのプログラムが書ける。後生畏るべしだ。
2.あんな小さい頃から嘘をついても平気な顔をしている。後生畏るべしだ。
3.新卒社員はみな、後生畏るべしである。課長もうかうかしていられない。
人間の本性として、相手を若者や後輩とみれば無条件に侮りがちです。「あんな子供に、あんな若造に…」。でも冷静、客観的に考えれば、もしも彼等が自分と同じ年齢になった時、果たして自分より智恵や実績が劣るなどと断言できましょうか。
後生とは、自分より後から生まれた人、すなわち後進のこと。正解は3.の「後進は成長するのだ。侮らず謙虚に接するべし」です。
さてこの句に上のような様々な解釈・用法が見られるようになった最大の理由は、後々「後生」が、「こうせい」と読まれることから、「後世」と書かれるようになったため。辞書や『論語』関係書籍では、さすがに正しく「後生」とありますが、「後世畏るべし」と書いて、1.の「どこまで伸びるかわからない→他人の子をほめる」用法が世の中では大変多く見られます。1.のさらに転用・誤用例が2.の「末恐ろしい」。負の方向にすくすく伸びるわけですね。
正解の3.の用例を『徒然草』から拾います。
「先進、後生おそると云ふこと、この事なりと侍りき」219段
1.の用法も結構古くから使われています。
「おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち」
『坊ちゃん』夏目漱石
「後世畏るべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている」
『弟子』中島敦
ただし『弟子』には、3.の用法のニュアンスも感じられます。いずれにしろ、論語のこの段落より「後生畏るべし」だけが抜き出され、有名になり、その部分のみ一人歩きしてしまったことがすべての原因です。
しかし大事なのは、ここで孔子が何をいちばんにいわんとしたか、ということ。この段落の話し相手は、孔子十哲といわれる、門人の中でも高弟とされる人々。すなわちもはや若者ではなく、中高年に達した人々なのです。「後進は成長する、侮らず謙虚に接するべし」の後、「しかし四十・五十になっても芽が出なければ、はじめて恐れる必要がないとわかる」といっています。孔子はそもそもこの言葉を若い人に向けて発してはいない。むしろ自分も含め、社会的地位のある中高年に向けて語ったものなのです。
「私もお前たちもいい歳になったが、今世の中で自分たちがどのように評価されているのだろうか。若い者を見下す資格はないぞ」。このようにいいたかったに違いありません。
[原文]
子曰く。後生畏るべし。焉(いずく)んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十・五十にして聞こゆる無きは、斯れ亦畏るるに足らざるなり。
『論語』加地伸行訳注 講談社 2006.10.20
[現代語訳]
先生は、このようにおっしゃった。
「後進を恐れねばならん。ゆくゆくは我々をしのぐような存在になるかもしれんのだ。その者たちが四十、五十となっても名が世に出ない時、はじめて恐れるに足りぬことがわかるのではあるが」
現代語訳 能文社 2008.7
No.34 過ぎたるは猶及ばざるがごとし
『論語』先進 第十一
[質問]
「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」の正しい用法を下の1.~2.から選びなさい。
1.過剰も未達も、未完成という点では全く同じ。すべて中庸がよい。
2.なにごとも度を越えることが良くない。謙虚に、慎ましくふるまうべきだ。
孔子十哲と呼ばれる孔門高弟に、子貢、子張、子夏の三人がいます。
子貢は弁舌巧みで外交手腕に優れ、一時期その能力が師をも越える、と噂されるほど有能な人。孔子没後、門弟たちの実質的な取りまとめ役を担うことになります。
子張は頭脳明晰で活発、押し出しの強いキャラクター。それに対して、子夏は学者肌、自分の城を守る「深く狭く」の人でした。
ある日、人物批評を好む子貢が、子張、子夏、二人の弟子について師の評価を求めました。これに対する孔子の答えが「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」。孔子は儒教の中心概念、「中庸」の観点から、子張の出過ぎることも、子夏の引っ込み思案なことも、いずれも不可と判定を下したのです。
すなわち正解は、1.の「過剰も未達も不可。二人とも失格」です。
この名言も上の「後生畏るべし」と同様、一般的に本来の用法では用いられていないかもしれません。誤用の原因は、「及ばざる」の意味を「不足」ととったこと。すなわち「やり過ぎは、不足よりも、さらによくない」としたことに起因します。
さらに、根源的な要因は、孔子の「中庸」の概念を私たちが正しく認識していないことにあるのかもしれません。そもそも「中庸」には、「ほどほど、折衷主義、ことなかれ、控えめ」の意味はありません。孔子自身「中庸」を明確に定義していませんが、後世、南宋時代の朱子が以下のように定義付けています。
「不偏不倚、過不及なくして平常の理なり。乃ち、天命の当に然るべきところにして、精微の極なり」
翻訳すれば
「中庸とは、円満ですべて整っており、恒久不変の真理である。すなわち、天の意思そのままに、精妙にして、万に一つも取りこぼしがないものである」
となります。
さらに、「中」と「庸」の語形より、原義をたどるとその概念は、より明確になると思われます。
「中」の文字はもともと「あたる」と読み、象形文字では、的に突き当たった矢の形でした。「庸」は、棒を持った二本の手が左右から、上に天井を突き上げる形。参考画像はこちら。
つまりこれらの意味を組み合わせると、
「異質な物を組み合わせながらも和合させ止揚。完璧を目指し向上していくこと」
となります。ぼくたちが、想像している「中庸=妥協・折衷」からはずいぶんと隔たったものだとわかります。
つまり孔子はこの名言で、子張も子夏も、儒教の根本「中庸」から過ぎたもの、及ばざるもの、と同程度の評価を与えつつ、加えて子貢や他の弟子にも「和合」と「精進」を訓示しようとしたのでしょう。
[原文]
子貢問いて曰く、師と商と孰(いず)れか賢(まさ)れる、と。
子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず、と。
曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるか、と。
子曰く、過ぎたるは猶及ばざるがごとし、と。
『論語』加地伸行訳注 講談社 2006.10.20
[現代語訳]
子貢が先生に問うた。
「師(子張)と商(子張)では、いずれが勝っておりましょうや」
先生が答える。
「師は過ぎておる。商は及ばぬ」
「つまり、師が勝っているのでございますね」
「いや。過ぎるも、及ばぬもまるで同じ。いずれも達しておらぬのだ」
現代語訳 能文社 2008.7
2008年07月08日 22:37
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