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No.36
士は己れを知る者のために死す。
~『史記』刺客列伝 (豫譲)
〔解説〕
司馬遷の『史記』刺客列伝にある有名な句。紀元前五世紀中国晋の人、豫譲(よじょう)の言葉です。しかし、意外と知られていないのは、この句には続きがあるということ。
「女は己れをよろこぶ者のために容(かたちづく)る」
男は自分を理解してくれる、一人の人のために命を投げ出し、女は自分を愛するただ一人の男のためだけに美しくなる…。さて、豫譲は春秋戦国期を代表する「刺客」の一人です。ただし、同時代最も高名な刺客は、秦の始皇帝暗殺を試みた、燕の荊軻。国を守るため、二人の男の首を道連れにし、懐には匕首一本を忍ばせて単身で虎狼の国、秦へと向かう。
「風簫々として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた還らず」
わが詩を吟詠しつつ大河を渡った男は、本懐を遂げることが叶わず、二度と故郷に戻ることはありませんでした。
さて、豫譲は内乱で討たれた主の仇をとるため山中に潜み、囚人となり、物乞いとなり、挙句の果てにライ病者にまで姿を変え、幾度も仇をつけ狙います。彼にはそれまで三人の主人がいた。最後の主人、智伯は、その前の二人の主人を殺した男。しかし豫譲がつけ狙ったのは、智伯を討った趙襄子という晋の最有力者ただ一人でした。豫譲はなぜ、最初の二人の主人ではなく、よりによって悪名の高い智伯の仇だけをとろうとしたのでしょうか。その理由は、
「士は己れを知る者のために死す」。
智伯だけが、豫譲を国士としてうやうやしく迎え、厚く礼遇してくれたから。真に己れを理解してくれた、この世にただ一人の主に報いんとしたのです。後世唐の太宗は、衛の弘演ほどの忠烈の臣は求められぬ、と嘆いた。諫臣の魏徴はこれに対し、豫譲の例を引き、
「君の之を礼するにあるのみ。何ぞそれ人無しと為さんや」(貞観政要 巻第五 論忠義第十四)
と釘を刺しました。孔子も「君、臣を使うに礼をもってす」(論語 八佾第三)とし、君が君たるゆえ、忠臣も逆臣もあらわる、と説きます。人が人を理解することは、かほどに難しい。
「人の己を知らざるを患(うれえ)ず。人を知らざるを患う」(論語 学而篇)
(他人が自分をわかってくれないと嘆く前に、人の心をわかろうとしない自分を恥ずべし)
これと同義の句が、『論語』には四度も現れます。徳治による社会変革をめざした孔子にとって、ただ一人の人間を理解することがいかに困難かつ重要であったか。その思いの深さを、朱子は『論語集注』で指摘しました。人が人を信じる理想のカタチは、「管鮑の交わり」に見られますが、実際にはなかなか難しいのかもしれません。
さて豫譲は、趙襄子がいつも通る橋の下で待ち伏せる。ついに敵が橋にさしかかり、最後のチャンスに懐の匕首を握り締めるが…。
続きは〔あらすじ〕でご確認ください。
〔あらすじ〕
春秋時代晋では、君主の統制が衰え、有力氏族間で内紛が勃発する。最も勢力の強い智伯は、ライバル趙襄子を亡き者にせんとし、逆に返り討ちに合い、一族誅せられてしまう。
趙襄子の恨みは骨髄に達し、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、これを酒盃として溜飲を下げたのである。智伯の腹心であった豫譲は、ひとり山中に隠れ復讐を誓う。
「ああ。士は己れを知る者のために死し、女は己れをよろこぶ者のために容る。今、智伯我を知れり。我、必ずために仇を報いて死なん。もって智伯に報わば、すなわち我が魂魄恥じず」
豫譲は山を降り、囚人となって、監獄の便所の壁塗りとなる。ある日、その便所に趙襄子が入ろうとした。胸騒ぎを感じ人夫を捕まえると、豫譲である。懐からは匕首が見つかった。が、
「天晴れ勇士、彼は義士である」
として、配下の反対を押し切って釈放してやった。その後豫譲は、全身に漆を塗って皮膚をただれさせ、ライ病者を装う。炭を飲んで喉を潰して別人になりきる。市場で物乞いをした時、偶然妻とすれ違ったが、もはや夫とは気づきもせぬ。しかし友人宅を物乞いに訪れた時、見抜かれてしまう。友人は変わり果てたその姿に涙しながら、趙襄子にひとまず屈し、その配下となってチャンスを狙うようアドバイスした。しかし豫譲は、
「二心を抱いて主に仕えることは、本意ではない。後世、二心をもって仕えんとする者のなきように、かくするのだ」
といって立ち去るのである。
時が流れ、再び趙襄子を討つチャンスがやってくる。趙襄子の通る橋の下で待ち伏せする豫譲。しかしその橋にさしかかろうとする時、趙襄子の車馬が殺気を感じ、驚いて棹立ちとなる。曲者を引き出し捕らえてみると、またしても豫譲。
「智伯は汝が仕えた二人の主を殺した。なぜその二人の仇をとらずに、智伯だけに忠義を尽くすのか」
と、趙襄子は豫譲に問う。豫譲は答える。
「前の二人の主は、我を一家人として遇した。我も一家人として、これに報いた。しかるに智伯殿は、我を国士として迎え、厚く礼遇してくれた。国士としてその恩に報いるのだ」
趙襄子は聞き終わると嘆息し、このたびは許すわけには参らぬ、と兵卒に豫譲を斬らせんとする。豫譲は、これまでの趙襄子の温情ある処置に謝しつつも、最後の願いを申し出た。すなわち趙襄子の衣服を借り、せめてこれを斬って形だけでも主の仇を討って死にたい、と。趙襄子はその義に感じ、衣服を貸し与える。豫譲は三度躍り上がると、これに斬り付けた。
「我もって智伯に報ゆべきなり」
そして剣の切っ先に倒れ伏し、自らを刺し貫いて果てた。この日、国中の志士は豫譲の死を聞いて涕泣せざる者はなかったという。
『史記』刺客列伝(能文社2009)
2009年01月21日 19:11
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コメント
今、学校の授業でこの史記の
一説を勉強しています。
やはり、漢文だけだと分から
ないことが多いのですが、こ
のサイトでとても理解を深め
ることが出来ました。
ありがとうございます。
投稿者 Tall : 2009年03月29日 23:37
Tallさま
書き込みありがとうございます。
学校で『史記』を勉強されているのですね!
特に「列伝」の面白さは、水滸伝や三国志にも勝るとも劣らないかも…。わが国の時代小説家もアイデアソースとしているようですね。
『史記』を学びながら、ぜひダイナミックな作品世界を楽しんでください!
投稿者 庵主 : 2009年04月01日 20:01
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