心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.38
言ひおほせて何かある。
~松尾芭蕉の言葉。『去来抄』(向井去来)
〔原文〕
つたの葉── 尾張の句。
この発句は忘れたり。つたの葉の、谷風に一すぢ峰まで裏吹きかへさるるといふ句なるよし。予、先師にこの句を語る。先師曰く、
「発句はかくの如く、くまぐままで言ひつくす物にあらず」
となり。
支考、傍に聞きて大いに感驚し、
「初めて発句といふ物をしり侍る」
と、この此物語あり。予はその時もなほざりに聞きなしけるにや、あとかたもなくうち忘れ侍る。いと本意なし。
下臥(したぶし)につかみ分けばやいとざくら
先師路上にて語りて曰く、
「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」。
去来曰く、
「いと桜の十分に咲きたる形容、よく言ひおほせたるに侍らずや」。
先師曰く、
「言ひおほせて何かある」。
ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。
『去来抄』(向井去来)
〔解説〕
其角の句集に入集した〈下臥につかみ分けばやいとざくら〉。この句について去来が、
「糸桜が華やかに咲き誇ったさまを言い尽くしたもの」
と評したところ、芭蕉は、
「言ひおほせて何かある」
(ものごと言い尽くしてしまえば、後に何が残ろうか)
と、発句の要諦を指し示しました。『蕉門俳諧語録』でも、
「句は七八分にいひつめてはけやけし(くどい)。五六分の句はいつまでも聞きあかず」
と、芭蕉は教えます。
古来日本人は、余情を大切にしました。とりわけ言語、文芸においては。それゆえ明白すぎる説明はせず、行間を読むことが読み手に求められてきたのです。
余情は、何も書かれていない余白から生起する。本来提示されるべき情報が欠落している、この空白や間をとりわけ重んじるのが日本文化です。たとえば古く、壬生忠岑が提唱した、和歌体十体のひとつに〈余情体〉があります。
我が宿の花見がてらに来る人は 散りなむ後ぞこひしかるべき
歌意は「花盛りの頃我が家をたずねてくれた人があった。今桜はすっかり散ってしまったが、なぜかその人のことをことさら恋しく思われる」というもの。言葉に思いの一端を暗示することで、かえってあらゆる意味をこめることができる。今目の前から消えうせてしまった対象に、延々とまとわりつくような愛着、余韻嫋々とした悲哀感が、忠岑の説く〈余情体〉です。紀貫之が古今集仮名序で在原業平を、
「その心あまりて詞たらず。しぼめる花の色なくて匂残れるがごとし」
と評したこころと同じでしょうか。
余情の美・余白の妙は、文芸だけにとどまらず他の芸道分野でも重要とされてきました。世阿弥は、能において最上の芸位を〈花〉という概念で説明しようとしましたが、〈花〉よりもさらに上位の風体に〈萎れる〉を位置づけます。
花を極めん事一大事なるに、その上とも申すべき事なれば、萎れたる風体返すがへす大事なり。さるほどにたとへにも申し難し。古歌に云はく、
薄霧のまがきの花の朝じめり 秋は夕と誰か言ひけん
また云はく、
色見えで移ろふものは世の中の 人の心の花にぞありける
かやうなる風体にてやあるべし。
(『風姿花伝』第三問答條々)
萎れたる花の風情。これこそ業平の余情をすくい取ったもの。姿を白日にさらさぬ幽玄と、美の残像たる余情こそ、能の表現技法の根本ともいうべきものです。
茶の湯においても〈余情〉は欠くべからざるもの。残火会、跡見会などでは、会の名残を惜しみ過ぎ去った時間の余韻を主客ともに共有するという。また聞香ではとりわけ〈余情〉が重んじられます。貴客を迎える時の空炷きとは、席にて直接香を聞かず、前もって、あるいは別室にて香をたき、馥郁たる余情を席の荘りとすること。また名香の場合、炷き終わった香殻の残り香を〈すがり〉と呼んでことのほか珍重します。その儚い生命の消えてしまわぬ内に香炉が遅滞なく末客から主客へと渡される。
客香の聞きやう、香炉を請取て段々まはし、さてすがりを聞く時下座よりすぐにまはすべし。上客ききをさめふくさにて清め、香炉のせてかへす。
(『南方録』墨引)
日本人はよく、五感で察知しえない気配や名残などを“匂い”と表現します。そこに実体はないけれど明らかに存在し、その解釈も評価も受け手によってまちまちで多義的なもの。芭蕉は句の余情をとりわけ重視しました。それゆえ、前句より立ち上る気配を受ける〈匂付〉が、蕉門付合の代名詞となったのではないでしょうか。「言ひおほせず」に生命を得た何かはまた、禅味豊かな蕉門俳諧において、教外別伝たる何かと言い換えることができるかもしれません。
馬に寝て残夢月遠し茶の煙 (野ざらし紀行)
蘭の香やてふの翅にたき物す (同)
「附心は薄月夜に梅の匂へるが如くあるべし」(祖翁口訣)
2009年05月09日 09:43
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