心にしみる名言、知恵と勇気がわいてくる名文を、千年の古典名著から毎回お届けしています。
No.41
せぬ隙が、面白き。
~『花鏡』世阿弥
「せぬひまが、面白き」。能という芸術の根本に触れ核心をつく、名言です。世阿弥の中期代表能楽論『花鏡』の中の一句。世界的名著であり、処女作にして最高傑作とされる『風姿花伝』が、父観阿弥の遺訓をもとに編纂された世阿弥の間接的な著作ならば、『花鏡』は、観阿弥死去以来、四十年間世阿弥自身が舞台と実践の中で確かめ、磨き上げた「花の理論」の総決算と位置づけられる代表的著作です。
能の美を表現する言葉に、「空白の美」「動く彫刻」などという常套句がある。世阿弥は、前代の名人を語る『申楽談儀』で、田楽の老名人喜阿弥の微動だにしない姿より発散される圧倒的な存在美を「胡銅の物(名物茶道具)を見るようなりし」と評しています。
能の稽古では「謡は声を出している時ではなく、息継ぎの方が大事」「仕舞は止まっている時間こそ重要」と、くどいほど注意され、叩き込まれます。たとえば名役者による井筒のシテが、謡い出す前のぴたりと静止した姿から、にじみ出る気迫と存在感に、観客は圧倒され、えもいわれぬ感動を覚えるもの。逆に動き出し、謡い出すとぷつりと緊張の糸が切れてしまうように感じるものです。
これらすべてが「せぬ隙」であり、能の命、さらに拡大すれば日本文化全般の”空白の美””余情”へとつながっていく。まずは、当句所収の段落をご紹介しましょう。
〔原文〕
万能を一心につなぐこと。
見所の批判に云はく、「せぬ所が面白き」など云ふことあり。これは為手の秘する所の案心なり。まづ二曲を初めとして、立ち働き・物真似の種々、ことごとくみな身になすわざなり。せぬ所と申すは、その隙(ひま)なり。このせぬ隙は何とて面白きぞと見る所、これは油断なく心をつなぐ性根なり。舞を舞ひやむ隙、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物真似、あらゆる品々の隙々に心を捨てずして用心をもつ内心なり。
この内心の感、外に匂ひて面白きなり。かやうなれどもこの内心ありと他に見えて悪かるべし。もし見えば、それはわざになるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にて、我が心をわれにも隠す案心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなはち、万能を一心にてつなぐ感力なり。
「生死去来、棚頭傀儡、一線断時、落々磊々」。
これは生死に輪廻する人間の有様をたとへなり。棚の上の作り物の傀儡、種々に見ゆれども真には動くものにあらず。操りたる糸のわざなり。この糸切れん時は落ち崩れなんとの心なり。申楽も種々の物真似は作り物なり。これを持つものは心なり。この心をば人に見ゆべからず。もしもし見えば、傀儡の糸の見えんがごとし。かへすがへす、心を糸にして人に知らせずして万能をつなぐべし。かくのごとくならば能の命あるべし。
そうじて即座に限るべからず。日々夜々、行住坐臥にこの心を忘れずして定心につなぐべし。かやうに油断なく工夫せば、能いや増しになるべし。この条極めたる秘伝なり。稽古に緩急あり。
(『花鏡』日本の思想8世阿弥集 筑摩書房1970)
すなわち「せぬ隙」は、何もしないことや息を抜いて休んでいることではなく、実はその正反対。動いているとき以上の高密度のエネルギーが内部で張り詰めて、ずっとつながっていることなのです。そしてその心は気配として微塵も表に現れてはならぬ。わが心をわれにも意識させぬ、無心の境地に入ること。これはもう芸道の修練ではなく、禅の悟道そのものに思えます。充実した一念一念を、一瞬一瞬とつなぎ、積み上げ一生となる。有と無、自と他の境を超越すること。それゆえ末文にて世阿弥は、「この条極めたる秘伝なり」と結語したのです。「稽古に緩急あり」は、そのまま「開悟に漸頓あり」と読み替えることができるかもしれません。
『花鏡』には、このように世阿弥がたどり着いた最奥の境地を暗示する、名言・名句がいたるところに見られます。各章段の見出しをながめているだけでも、ふつふつと興味がわき、想像力がかきたてられる。以下、これを列挙してみました。『風姿花伝』読後には、ぜひ手にとってみたい不朽の名作といえましょう。
・一調・二機・三声
・動十分心、動七分身
・強身動宥足踏、強足踏宥身動
・先聞後見(目前心後)
・まずよくその物になり、後によくその態を似す
・舞声為根
・時節が感に当たる
・序破急
・上手の感を知る
・浅深
・幽玄の境に入る
・劫の入る用心
・万能を一心につなぐ
・妙所
・批判
・音習道
・奥の段
2009年10月04日 12:07
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